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最高裁判所第一小法廷 昭和59年(オ)3号 判決 1989年4月27日

上告人

右代表者法務大臣

髙辻正己

右指定代理人

岩佐善巳

大島崇志

宗宮英俊

三木勇次

篠原睦

細井淳久

竹本健

藤村英夫

秋山義明

南敏春

被上告人

三共自動車株式会社

右代表者代表取締役

松村勝一

右訴訟代理人弁護士

町彰義

西村渡

主文

原判決中上告人敗訴部分を破棄し、右部分について被上告人の控訴を棄却する。

控訴費用及び上告費用は、被上告人の負担とする。

理由

上告代理人藤井俊彦、同篠原一幸、同富田善範、同栗原仁郎、同饒平名正也、同山口修弘、同渡辺盛、同岩井重信、同辻本義雄の上告理由について

原審は、(1) 被上告人は、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)三条一項の適用を受ける事業の事業主である、(2) 被上告人の労働者であった岡本純一(以下「訴外人」という。)は、昭和四二年六月七日被上告人の本社工場においてトラクターショベル車の点検修理の業務に従事中、ショベル車のバケットを吊るワイヤーロープが切れ、バケットが同人の頭上に落下したため、脳挫傷等の傷害を受けた、(3) 右ショベル車には民法七一七条に規定する瑕疵があったので、訴外人は被上告人に対して損害賠償を求める訴えを提起したところ、その上告審において最高裁判所は、昭和五二年一〇月二五日、労災保険法又は厚生年金保険法に基づく保険給付について、使用者は、現実の給付額の限度で、同一の事由についての損害賠償の責を免れるが、いまだ現実の給付がない将来の給付額を控除すべきではないとして、労災保険法に基づき将来給付されるべき長期傷病補償給付から中間利息を控除した三九五万六一一四円を逸失利益から控除することなく、右金額を含む損害額の賠償を命ずる判決を言い渡した(昭和五〇年(オ)第六二一号第三小法廷判決・民集三一巻六号八三六頁)、(4) 被上告人は、昭和五二年一一月二五日までに、右判決により賠償を命じられた損害額及びこれに対する遅延損害金を訴外人に対して支払った、(5) 上告人は、訴外人に対して、右労災事故に対する長期傷病補償給付及び傷病補償年金として原判決添付の一覧表のとおり既に三九五万六一一四円を超える金員を支給した、(6) その内、前記判決に係る訴訟の事実審口頭弁論が終結された時から被上告人が判決で命じられた金員の支払をするまでに一二四万四五六四円が、その後、昭和五五年一〇月二〇日までに二一六万一二六五円を超える金員が支給されている、との各事実を適法に確定したうえ、民法の不法行為の規定に基づき労働者が労災事故により受けた労働不能による逸失利益の損害賠償債務を現実に弁済した使用者は、同一の事故を原因として労働者に支給されるべき労災保険法上の長期傷病補償給付又は傷病補償年金について、弁済後に支給されるべき分のうち、右弁済額に満ちるまでの部分について、民法四二二条により、労働者に代位して国に対する請求権を取得するものと解されるとして、主位的には上告人が支払った三九五万六一一四円及びこれに対する遅延損害金の一括支払を、予備的には既に支払期の到来した保険給付請求権のうち右金額に満ちるまでの金額及びその内金に対する遅延損害金の支払を求める被上告人の各請求を棄却した第一審判決を変更し、前記判決に係る訴訟の事実審口頭弁論が終結されたときから被上告人が判決で命じられた金員の支払をするときまでに支給された労災保険法に基づく前記給付額を控除した金額の限度で、被上告人の予備的請求を認容した。

しかし、右判断を是認することはできない。その理由は次のとおりである。

民法四二二条の賠償者による代位の規定は、債権の目的たる物又は権利の価額の全部の損害賠償を受けた債権者がその債権の目的たる物又は権利を保持することにより重複して利益を得るという不当な結果が生ずることを防ぐため、賠償者が債権の目的たる物又は権利を取得することを定めるものであり、賠償者は右の物又は権利のみならず、これに代わる権利をも取得することができると解することができる。そして、右規定が不法行為による損害賠償に類推適用される場合についてみるに、賠償者が取得するのは不法行為により侵害された権利又はこれに代わる権利であると解されるところ、労災保険法に基づく保険給付は、業務上の事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、障害又は死亡に対して迅速かつ公平な保護をすること等を目的としてされるものであり(労災保険法一条)、労働者が失った賃金等請求権を損害として、これを填補すること自体を目的とする損害賠償とは、制度の趣旨、目的を異にするものであるから、労災保険法に基づく給付をもって賠償された損害に代わる権利ということはできない。したがって、労働者の業務上の災害に関して損害賠償債務を負担した使用者は、右債務を履行しても、賠償された損害に対応する労災保険法に基づく給付請求権を代位取得することはできないと解することが相当である。また、労災保険法に基づく給付が損害賠償により填補されたものと同一の損害の填補に向けられる結果となる場合に、いかなる者に対して、いかなる範囲、方法で労災保険法による給付をするかは、労災保険制度に関する法令において規律すべきものであるところ、関係法令中に損害賠償債務を履行した使用者が労災保険法に基づく給付請求権を取得することを許容する規定は存しない。

そうすると、被上告人の請求をいずれも棄却した一審判決を変更して被上告人の予備的請求を一部認容した原判決には、民法四二二条の解釈適用を誤った違法があり、右違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、論旨は理由があり、原判決中被上告人の請求を認容した部分は破棄を免れない。そして、前示のとおり被上告人の各請求は棄却すべきものであるから、これと結論を同じくする第一審判決は相当であり、被上告人の控訴は棄却すべきものである。

よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八四条、九六条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官大堀誠一 裁判官角田禮次郎 裁判官大内恒夫 裁判官佐藤哲郎 裁判官四ツ谷巖)

上告代理人藤井俊彦、同篠原一幸、同富田善範、同栗原仁郎、同饒平名正也、同山口修弘、同渡辺盛、同岩井重信、同辻本義雄の上告理由

原判決には、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)の適用事業場で発生した労災事故(以下「使用者行為災害」という。)につき被災労働者(以下「労働者」という。)が、事業主(以下「使用者」という。)に対する不法行為に基づく損害賠償債権と、政府に対する労災保険法に基づく保険給付債権を有する場合において、損害賠償義務を履行した使用者は労働者の政府に対する保険給付債権を民法四二二条によって代位取得する旨判示した点において、労災保険法及び民法四二二条の解釈適用を誤った違法があり、この法令違背が判決に影響を及ぼすことは明らかである。以下、その理由を述べる。

一 保険給付債権について民法四二二条による使用者の代位取得を認めることは労災保険制度の趣旨、目的に反する。

1 原判決は、使用者の保険利益をどの程度考慮すべきかは立法政策の問題であるが、労災保険法やその他の法令を検討しても、本件の場合に民法四二二条の適用を否定する立法政策はどこにもみられないとし、労災保険法一二条の四第二項が、保険給付の原因である事故が第三者の行為によって生じた場合(以下「第三者行為災害」という。)につき労働者が加害第三者から損害賠償を受けたときには保険給付をしないことができるとしていることは、労働者が損害賠償を受けたとき労働者に保険給付を行わないことが労災保険の目的に反したり、保険給付の性格に反するものではないことを示しているから、本件の場合に民法四二二条による代位取得を認めても労災保険法の目的を害したり、保険給付の性格に反したりするものではない旨判示している(原判決一一丁表五行目ないし一二丁裏一行目)。

2 しかしながら、労災保険制度は「業務上の事由又は通勤による労働者の負傷、疾病、廃疾又は死亡に対して迅速かつ公正な保護をするため、必要な保険給付を行い、あわせて、業務上の事由又は通勤により負傷し、又は疾病にかかった労働者の社会復帰の促進、当該労働者及びその遺族の援護、適正な労働条件の確保等を図り、もって労働者の福祉の増進に寄与することを目的とする。」(労災保険法一条――ただし、昭和五三年法律第五四号による改正前のもの。以下、特に断らない限り同法の引用はこれによる。)ものであり、それは、近代的生産関係のもとにおいては使用者の支配する生産活動そのものになにがしかの労働災害の危険が不可避的に内在しており、このような危険が顕在化することによって生じた労働者の損害については使用者にこれを補償させることが公平に合致するとの観点から設けられた労働基準法上の災害補償制度が画餅と化することのないようその実効性を確保するための方策として採用されたものである。したがって、それは結果的には、使用者の負担軽減にもつながり、使用者の労働基準法上の災害補償責任についての責任保険的機能を果たす一面を有するものの、法制上の責任保険そのものとしては構成されておらず、保険給付も政府から直接労働者及びその遺族に対して行われるようになっているのであり、このような労働者の保護ないし救済のための保険給付として性格上、後記のとおり、労災保険による保険給付についてはその保護のための規定(労災保険法一二条の五、一二条の六)が置かれているのである。このように、労災保険の目的はあくまでも労働者の保護ないし救済に主眼があるのであって、労働災害について使用者が労働者に対して負担する民事上の損害賠償責任をてん補することを目的とするものではないのである。労災保険法に責任保険の一つである自動車損害賠償保障法一五条のごとき加害者請求の規定が置かれていないのも、また、労災事故について使用者に故意又は重大な過失が存する場合にも保険給付の支給制限をせず(労災保険法二五条一項二号参照)、また、使用者の不実の告知、保険料の滞納をもって保険給付の給付制限事由とする旨の規定を設けていないことも労災保険制度の目的が前記のようなものであることを示している。一方、労災保険制度を給付内容の面からみても、発足当初にこそ労働基準法によって使用者に課せられた災害補償の範囲にとどまるものであったが、その後逐次給付内容が改善されるとともに、昭和二七年には休業補償給付についてスライド制が採用され、同三五年には保険給付に長期補償給付制度が導入され、さらに同四〇年には保険給付が本格的に年金化され、その後逐年給付水準が引き上げられていて国際的水準にまで高められる等、使用者を総体的に集団としてとらえることにより、その責任の拡大、徹底を図るものとして、もはや単なる労働基準法上の災害補償の履行確保という制度発足当初の性格ないし目的を超えてこれをはるかに上回る高水準の給付が行われ、労働者の損害のてん補及び生活の保障が図られるに至っているのである。

以上によれば、労災保険給付は、労働の場においては不可避的に労働災害が発生するという現実に着目して、労働者の保護を図るために、使用者に負わせた無過失損害賠償責任である労働基準法上の災害補償制度を基礎とし、迅速な給付、賠償の履行確保、妥当な給付水準の維持等の観点から、事業主の団体責任に基づき、直接被災労働者を給付の対象とする保険形式をとったものということができる。

3 このように、労災保険給付は、もともと、使用者の労働基準法上の災害補償責任の責任保険的機能を果たすため発足したものであり、現行法においても、その性格は労働基準法八四条一項が示すように基本的には同様である。次に、民事上の損害賠償請求権と労働基準法上の災害補償請求権とは、その目的、性格、要件、賠償の範囲において異なるものであり、同一のものとは考えられない。ただ、災害補償も労働者に生じた損害を補償する限りにおいて損害災害について同じ損害てん補の機能を有する制度からの重複てん補は不合理である。労働基準法八四条二項はこのような趣旨を明らかにした規定である。民事損害賠償と労災保険給付についてはこのような明文の規定は存在しないが、労災保険も損害のてん補という性格を有するから、同条二項の法理は労災保険給付にも当然あてはまるものであり、判例(最高裁昭和五二年一〇月二五日第三小法廷判決・民集三一巻六号八三六ページ)の認めるところである。

以上のように、労災保険と民事上の損害賠償は損害のてん補という面において共通性があり、二重てん補を不当とする場合にはこれを調整する必要があるが、労災保険は、民事上の損害賠償ともともと性格、内容を異にする労働基準法上の災害補償を基礎とする制度であるから、いかに使用者が保険料を負担しているとしても、労災保険給付について使用者の民事上の損害賠償責任保険的機能ないしは性格を認めることはできないといわなければならない。

原判決は、「使用者は労災保険の適用事業の事業主として保険料を納付する義務があり、その実質的な対価として、労働基準法の災害補償の責を免れ(同法八四条)、少なくとも保険給付が行われたときはその限度で同一事故による民法上の損害賠償責任も免れる(前記最高裁昭和五二年一〇月二五日判決)利益を受けていることである。このような保険利益も解釈に当り考慮に入れるべき一事情である。」(原判決一〇丁裏一〇行目ないし一一丁表五行目)と判示する。そして、このような保険利益は、民事上の損害賠償請求権から労災保険給付の将来分を控除することの可否について、いわゆる控除説の論拠の一つとして主張されたところでもある。しかしながら、労災保険は民事上の損害賠償責任についての責任保険的な性質は全くないから、保険利益といっても、それは、あくまで事実上の利益にすぎず、損害のてん補という面において結果的に考慮され得るにとどまる。右最高裁判決の判例解説においても、「しかし、労災保険は、労基法上の労災補償責任を保険によってカバーする制度であり、使用者の故意・過失にかかわらず、労務災害について保険給付を行うものであって、民法上の損害賠償責任をカバーすることを直接の目的とするものではない。使用者が損害賠償責任の軽減、免除をも目的として労災保険に加入したとしても、それは結果的に損害賠償責任が軽減・免除される場合があることを事実上期待しているにすぎないとみるべきである。労災補償責任は被災労働者・遺族の生活保障の色彩が強いのに対し、損害賠償責任は事故によって被害者に生じた損害の填補を直接の目的とし、また、責任の内容や補償・賠償の履行期、受給権者と損害賠償債権者等につき差が生ずることがありうるのであるから、労災保険でカバーされない部分について、保険料負担のほかに不法行為法上の損害賠償義務を負担することになってもやむをえないというべきであろう。使用者の保険利益を強調するあまり、労働者やその遺族の損害賠償請求権の行使が制約されるのは不当というべきであり、また将来の給付分についても損害が填補されたと解することは、第三者行為災害の場合の解釈とそぐわない結果となる(いずれにせよ労災保険等の給付が年金の形式で継続して支給される場合に、それと民法上の損害賠償請求権の調整は、立法上必ずしもうまく処理されているとはいいえないであろう。)。」(最高裁判所判例解説民事篇昭和五二年度三〇三ページ)と説かれている。すなわち、この二重てん補の問題は、結局使用者と労働者間の民事上の損害賠償請求において、損害額から保険給付分を控除するか、又は国と労働者間の労災保険給付において、損害賠償分については保険給付をしないか停止することによって解決されるべき問題であり、それ以上に国と使用者間において使用者の保険利益をどのように考慮するかは、立法政策の問題にとどまるというべきである。だからこそ、将来の保険給付の控除について非控除説に立つ学説において、保険給付の停止措置を主張するもの(加藤一郎「労働災害と民事賠償責任」季刊労働法一一三号一一ページ)はあっても、民法四二二条の適用を論じたものは皆無であったのであり、仮に、民法四二二条が適用されるとすれば、非控除説をとっても二重てん補となる余地はなく、そもそも両説の対立は、二重てん補を防ぐためには無意味であり、せいぜい労働者に一括弁済か分割弁済かを選択させる意味しかなくなるが、そのような指摘も皆無であった。そして、立法者は、労災保険給付と民事上の損害賠償の調整は、使用者行為災害においては後者の側で行われると考え、前者の側においては労災保険法一二条の四第二項のような労災保険給付の停止措置の規定を定めなかったものである。原判決は、「損害賠償金を支払った者に代位を認める明文の規定としては、既に民法四二二条が存していたから、法の全体としての統一上、労災保険法に改めて規定を置く必要のなかったことは明らかである。」(原判決一四丁表七行目ないし一〇行目)と判示するが、このような解釈は立法者の夢想だにしなかったところであって、学説、判例を通じてもこのような解釈をするものは全くなかったのである。そして、前記昭和五二年の最高裁判決が出て、将来の保険給付については、民事上の損害賠償の側では労働者に二重てん補が生じることについての調整を行わないことが明らかになったため、労災保険給付の側での調整が必要となり、昭和五五年法律一〇四号による労災保険法の改正に至ったものである。したがって、労災保険法に基づく保険給付債権について民法四二二条を適用することは、労災保険法の趣旨、目的に明らかに反するものであり、原判決は、本来、立法政策の分野に属する事柄について法の解釈の限界を超えて判断したものといわなければならない。

4 ところで、前記のように、労災保険法は昭和五五年法律第一〇四号によって使用者行為災害における民事損害賠償と労災保険給付との関係につき規定を新設し両者の調整を図っているが、これは両者の調整に関する明文の規定がない以上、例えば、本件のように使用者が将来の労災保険給付分によっててん補される損害相当分をも含めて民事損害賠償を履行した場合であっても、このことから直ちに労働者の将来の労災保険給付について支給停止の措置を講じることはできず、したがって結果的に労働者の二重利得の状態が惹起されることになるので、これを是正するためには両者の調整に関する規定を置く必要があるとの考え方によるものである。そうして、右調整規定によると、民事損害賠償側の調整として、労災保険給付のうち前払一時金を受けることのできる遺族(補償)年金及び障害(補償)年金の各保険給付については、前払一時金の限度で民事損害賠償の履行を猶予する一方、労災保険給付側の調整として、民事損害賠償が先に行われた場合は労災保険給付の支給を停止することができるとしているのである(右改正後の同法六七条)。

このような立法の経過の中で、仮に、原判決の判示するように、民事損害賠償義務を履行した使用者は、労働者の有する労災保険給付債権につき、明文の規定がなくとも民法四二二条によってこれを代位取得することが容認されているというのであれば、労災保険法が法を改正してまで民事損害賠償と保険給付との関係につき調整規定を新設する必要はなかったということになる。しかし、労災保険法は使用者行為災害における民事損害賠償と労災保険給付との関係についての調整規定を新設するに当たって、使用者行為災害については、使用者の保険利益を考慮する必要があるとの基本的認識に基づき、労働者に民事損害賠償債権と労災保険給付債権の併存を認める実定法体系のもとで、使用者の保険利益を立法に反映させる方法として、さまざまな方法が考えられる中で、使用者の保険利益と労災保険制度の健全な運営を確保する観点から前記のとおりの調整方法を採用したわけであり、これによって原判決が判示しているような使用者の民事損害賠償額から将来の労災保険給付分の控除を認めない代わりに、使用者が履行した民事損害賠償額のうち将来の労災保険給付によっててん補される損害分について民法四二二条によって労働者の将来の労災保険給付分を使用者に代位取得させるという方法を明確に否定しているのである。もとより、本件は右労災保険法改正前の事案で右改正労災保険法の適用を受けるものではないが、このような立法者の意思は改正前の労災保険法の解釈に当たっても十分考慮されてしかるべきであり、原判決が労災保険法その他の法令を検討しても本件の場合に民法四二二条の適用を否定する立法政策は存しないとしているのは失当であるといわざるを得ない。

5 そもそも労災保険法に基づく労災保険給付の法律関係に私人間の法律関係の調整規定である民法四二二条を適用することは、労災保険給付の公法的な特殊性と相容れず、法の全く予定しないところである。

労災保険は、労働者の業務上の事由又は通勤による疾病死亡等に対して迅速かつ公正な保護をするために必要な保険給付を行い、もって労働者の福祉の増進に寄与することを目的とする(労災保険法一条参照)ものであるが、法はこのような公益的な性格を有する労災保険を一般の営利保険又は相互保険に任せておくのは適当でないとの見地から、政府自らが保険者となることを定め(同法二条)、また、労働者を使用する事業が事業を開始した場合には強制的に保険関係を成立させ(同法三条、六条、労働保険の保険料の徴収等に関する法律三条)、政府の機関である都道府県労働基準局長をしてその事業を担当させ(労災保険法施行規則一条、二条)、その事業費について国庫が補助することができる旨を定めている(労災保険法二六条)。

そして、労災保険法は、右のような労災保険の特殊性にかんがみ、以下に述べるように、保険給付の請求について、特別の手続を定めるとともに、給付決定の後についても行政庁の公権的な監督規制の権限を定め、また労災保険給付請求権の譲渡を禁止するなど、労災保険給付の法律関係についての種々の公法的な規制を行っているのである。

(1) 保険給付請求の手続

労災保険法施行規則一条によれば、保険給付に関する事務は事業場の所在地を管轄する労働基準監督署長が所管することになっており、労災保険給付を請求する者は、同法施行規則一二条、同条の二、一三条、一四条の二、一五条の二ないし四、一六条、一七条の二に従い一定の様式の請求書を所轄の労働基準監督署長に提出し、右監督署長は右請求に対し、保険給付に関する処分を行ったときは同法施行規則一九条により遅滞なく支給に関する通知書を請求者に発送しなければならないことになっている。そして同法三五条、三七条によれば、保険給付に関する決定に不服のある者は労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をし、その決定に不服のある者は労働保険審査会に対して再審査請求をし、その裁決を経た後に処分の取消しの訴えを提起すべきこととされているのである。

右のように、労災保険給付の請求は、法律で定められた行政上の手続に従って行い、保険給付に関する決定に不服のある者は行政不服審査及び行政訴訟によるべきものとされているのである。そして、右の手続によらずに、直接国に対して民事上の請求をすることは許されないとされている(最高裁昭和二九年一一月二六日第二小法廷判決・民集八巻一一号二〇七五ページ)。

(2) 給付決定後の監督規制

労災保険法は、保険給付の受給権者に対して一定の届出義務等を課し(同法一二条の七)、また、行政庁が受給権者に対して一定の報告等や受診を命ずることができる旨を規定し(同法四七条、四七条の二)、受給権者がこれらに従わないときは保険給付の支払を一時差し止めることができる旨を定めている(同法四七条の三)。

また、年金たる保険給付は、その支給を停止すべき事由が生じたときはその間は支給しないこととされているのである(同法九条)。

右のように、労災保険給付については、その給付決定後においても種々の公権的な監督規制が働いているのである。

(3) 労災保険給付請求権の不融通性

労災保険法一二条の五第二項は、「保険給付を受ける権利は、譲り渡し、担保に供し、又は差し押えることができない。」と規定しているが、その趣旨は、労働者を保護するため、保険給付を受ける権利が本来の受給権者である労働者の手許から離れることを禁止したものである。

以上のように、労災保険法は、労災保険給付の法律関係について種々の公法的規制を行っているのであり、その法律関係の特殊性にかんがみるならば、これに私法法規である民法四二二条を適用することは許されないと解すべきである。

また、労災保険法は、労災保険給付をめぐる利害関係の調整について、労災保険制度の趣旨、目的に照らして、その独自の立場からこれを行うこととしているのであって(同法一二条の四、昭和五五年改正後の六七条等参照)、私人間の法律関係の調整規定である民法四二二条をこれに適用することは全く予定していないのである。

原判決は、労災保険制度の下における労働者保護の要請と使用者の保険利益とをあれこれ考察した上で、本件について民法四二二条を適用したものであるが、労災保険制度の下において、労働者と使用者の利害をどのように調整するかは、本来、労災保険制度の立法政策の問題に属する事柄であって労災保険法自体によって決められるべきものであり、私法上の債権、債務関係の調整規定にすぎない民法四二二条を適用して解決すべき問題ではないのである。

6 原判決は、使用者に保険給付債権の代位取得を認めることが労災保険法の性格、目的に反しないことの根拠として、労災保険法一二条の四第二項を挙示している(原判決一二丁表四行目ないし一一行目)が、同法一二条の四第二項は、原判決の理解とは逆に、政府の裁量によって労働者に損害賠償とともに保険給付を受ける余地のあることを容認した規定と理解することができ、現実の労災保険の運営においても、労働者が民事損害賠償を受けた後三年間は保険支給を停止しているが、その後は保険支給を再開する扱いとなっているのである(昭和四一年六月一七日基発第六一〇号参照)。これに加えて、使用者行為災害における民事損害賠償と労災保険給付との調整を企図して新設された前記昭和五五年法律第一〇四号による改正後の労災保険法においても、使用者から民事損害賠償を受けた労働者に対する労災保険給付を一定年限(最長九年間)停止するのみで、その後は保険給付を行うこととされ、また、遺族(補償)年金の受給権者のうち先順位の受給権者が失権した後の後順位の受給権者(転給権者)については保険給付の調整自体を行わないこととされているのである(右改正後の同法六七条二項、「民事損害賠償が行われた際の労災保険給付の支給調整に関する基準」各参照)。

このようにみてくると、結局のところ、第三者行為災害における民事損害賠償と労災保険給付との関係についての労災保険法一二条の四第二項のような調整規定もなかった本件当時の使用者行為災害においては、労働者が使用者から民事損害賠償を受けるとともに労災保険給付をも受けることになったとしても、それは労災保険法の許容するものであるというべく、その間の調整は必要に応じ別途労災保険法の改正によってこれを行い妥当な解決を図ることが本筋であり、民法四二二条によって使用者に労働者の有する労災保険給付債権を代位させることは法解釈の限界を逸脱したものといわなければならない。

二 労災保険給付債権につき民法四二二条による代位取得を認めることは労災保険法一二条の五第二項に反する。

1 労災保険法は、一二条の五第二項において、保険給付受給権についてはこれを譲り渡し、担保に供し、差し押えることができない旨規定しているが、原判決は同規定につき、「この規定は、保険給付が現実に労働者、受給権者の手に入るようにすることにより、その生活の資となることを目的としたものと解される。ところが、本件においては、右保険給付と重複する性格を有する損害賠償が、現実に、つまり現金をもって、受給権者岡山純一に対して支払われている(中略)から、右法条の目的とするところは既に達せられている」(原判決一三丁裏二行目ないし八行目)として、右法条は民法四二二条による使用者の代位取得を否定する理由にはならない旨判示している。

しかしながら、右労災保険法一二条の五第二項は何らかの留保をも設けることなく労災保険受給権の譲渡等を一律に禁止しているのであるから、同条項は相当の対価をもってする譲渡等をも禁止しているものと解さざるを得ず、原判決の判示するように、労働者が民事損害賠償を受けた場合には右法条の適用がないとしてこれを限定的に解釈することは文理上無理であるといわなければならない。なんとなれば、仮に、労災保険法が場合を区別して、労働者が民事損害賠償を受けた場合には労災保険給付の譲渡等が許されるとする趣旨であったとすれば、右労災保険法一二条の五においてその旨の明文を置くことに格別の支障もなかったわけであって、当然その旨の明文を置いていたと考えられるからである。しかるに、労災保険法はそのような明文の規定を置かなかったのである。これは取りも直さず、労災保険法としては、労働者及びその遺族の保護、救済のための保険給付がいかなる事情からにせよ労働者及び遺族等労災保険法所定の受給権者以外の者に取得されることを認めることは、労災保険制度の性格、趣旨ないし目的に反するものであるとしてこれを回避しようという意図に基づくものと理解されるのである。また、実質的に考察しても、保険給付に相当する金銭が民事損害賠償として支払われたとしても、保険給付が現実に労働者に支給されない以上、労働者の業務上の負傷等による損失をてん補し、その生活を迅速かつ公正に保護救済するという労災保険の目的が達成されたということにはならず、ことに、本件長期傷病補償給付を含む大半の保険給付につき年金方式が採用されるに至ったことは、これによって労働者の保護を一層厚くし、一時金方式(民事損害賠償もその一形態である。)のもたらす保険金の浪費ないし散逸を抑止し、労働者に将来にわたって一定の時期ごとに確実に保険給付を受けられるようにし、もって労働者及びその遺族の生活保障に資することを目的としているものであるから、労働者が民事損害賠償を受けたとしても、労災保険給付受給権者自体が消滅しない以上保険受給権は労働者及びその遺族に保有され、保険給付を受ける利益を失わないものというべきである。

2 原判決は、本件の場合に右労災保険法一二条の五第二項が使用者の代位取得を否定する理由とならないことの根拠として、最高裁昭和五二年一〇月二五日第三小法廷判決、同法一二条の四第二項、最高裁昭和三八年六月四日第三小法廷判決を挙示している(原判決一二丁裏九行目ないし一四丁表三行目)。

しかしながら、右最高裁昭和五二年一〇月二五日第三小法廷判決が既給付分の労災保険金額を民事損害賠償の損害額から控除しているのは、この場合は労働者に現実に保険給付がなされているからこれを民事損害賠償の損害額から控除しても保険給付の性格、趣旨、目的に反するものではなく、また同判決が使用者の民事損害賠償額の算定に当たって既給付分の労災保険金額の控除のみを認容し、将来の保険給付分についての控除を認容していないことから、労働者が使用者から将来の保険給付分を控除しないで民事損害賠償を受けた後は、将来の保険給付相当分の保険受給権自体を認めない趣旨であるとの結論は直ちには出てこないものというべきであるし、仮に、同判決が右の場合に労働者の保険受給権自体を否定する趣旨であるとすれば、労働者の保険受給権を前提とする使用者の代位取得も成立しないことになると考えられるから、いずれにせよ、原判決が労災保険法一二条の五第二項が使用者の保険受給権の代位取得を否定する理由とならないことの根拠として右最高裁判決を引用しているのは失当である。次に、労災保険法一二条の四第二項は、第三者行為災害において労働者が当該加害第三者から民事損害賠償を受けたときにその限度で政府が労働者に対し労災保険の給付義務を免れることができる旨規定しているものであり、最高裁昭和三八年六月四日第三小法廷判決も同様に、第三者行為災害において、労働者と当該加害第三者との間で民事損害賠償に関して示談が成立し、労働者が加害第三者の損害賠償債務の全部又は一部を免除した場合には政府はその限度で保険給付義務を免れる旨判示したものであって、いずれも労働者の保険受給権自体が絶対的に消滅するいわば権利の存否についての問題であるのに対し、本件は原判決によっても労働者の保険受給権が存在することを前提として、当該受給権が労働者に保有されるべきものであるのか、それとも民法四二二条によって使用者に代位取得されるのかといういわば権利の帰属の問題であるから、原判決が右最高裁判決等を本件について労災保険法一二条の五第二項の規定の適用を除外する根拠として挙示しているのは正鵠を欠き、失当というほかはない。

三 次に、民法四二二条は、労災保険受給権について使用者の代位取得を認める根拠規定とはならないことについて述べる。

1 原判決は、「民法四二二条は、被害者が損害賠償債権の発生と同一の原因にもとづき他の権利を取得し、又は被害物の残存物を有しているが、その権利や残存物の価額を損害賠償額から控除することは被害者保護の見地から不相当と解されるため債務者には右控除をしない額の賠償を命ずべき場合に、その権利(右弁済によっても消滅しない場合に限る)や残存物を被害者に保有させていたのでは被害者が不当に、二重に利得してしまうと解されるときは、その権利や残存物を、弁済者である債務者に取得させる趣旨のものであって、この権利や残存物の価額の不控除と、その権利等への代位とは表裏の関係にある制度ということができる。そして、このように代位を認めるについては、被害者がその権利、残存物の価額を控除しない損害賠償金と共に、その権利や残存物をも取得することが二重の利得として不当と解される場合でなければならない。」(原判決八丁裏六行目ないし九丁表八行目)と判示する。

民法四二二条は、債権者が債務者からてん補賠償を受けながら、なお債権の目的である物又は権利を保有するときは債権者が不当に利得することになり、実損害を賠償する損害賠償制度の目的に反することになる(於保不二雄・債権総論〔新版〕一五七ページ)ところから、債権者の二重利得を許さないために設けられた規定である。債務者が債権の目的物である物又は権利の価額の全部につき損害を賠償したときはその物又は権利を代位取得するのは当然であって、何ら問題はない。しかしながら、被害者が損害賠償債権の発生と同一の原因に基づき他の権利を取得した場合は、損害賠償債権の弁済をした加害者が直ちに被害者の有する右他の権利を取得し得るとすることはできない。例えば、労働者の死亡について第三者が不法行為に基づく損害賠償責任を負担する場合には、労働基準法七九条に基づく補償義務を履行した使用者は、民法四二二条の類推適用によりその履行した時期及び程度で遺族に代位して第三者に対し賠償請求権を取得するとするのが判例(最高裁昭和三六年一月二四日第三小法廷判決・民集一五巻一号三五ページ)であるが、右代位取得を認める理由としては、他人の不法な行為によって出捐を余儀なくされた者は、そのてん補を請求し得るとする公平の理念の要請(最高裁判所判例解説民事篇昭和三六年度一二ページ)が挙げられる。したがって、代位取得できる債務者は、他に損害賠償等の最終負担者がある場合であって、弁済した債務者が最終的負担者であるときはその者に代位取得させる理由はないのである。

ところで、使用者行為災害の場合にあっては、民事上の損害賠償責任の最終的負担者は使用者である。したがって、使用者は、労働者に損害を賠償した後、労働者が同一原因に基づいて権利を有するとしても、民法四二二条の類推適用により右権利を代位取得させる余地はないといわなければならない。原判決は、民法四二二条適用の理由の一つとして使用者の保険利益を挙げるが、先にも述べたとおり、右保険利益は事実上の利益でしかないのであって、労災保険においては、保険給付を停止さえすれば労働者の二重利得は防止し得るのであるから、保険給付停止措置をとるか、使用者の保険利益をとるかは立法政策の問題であって、民法四二二条適用の理由とはなり得ないものである。

2 労災保険法は、本件のごとき使用者行為災害における民事損害賠償義務を履行した使用者への労災保険受給権の代位取得の可否を含め、労働者の保険受給権の代位取得を予定した規定を全く置いていないから、同法はこれを許容しない趣旨であると解するのが相当である。

原判決は、この点について、労災保険法中に使用者行為災害において民事損害賠償義務を履行した使用者に労働者の有する労災保険受給権の代位取得を認める規定がないのは、そのような場合には民法四二二条の適用が予定されていて、改めて代位規定を置く必要がなかったからである旨判示している(原判決一四丁表七行目ないし一〇行目)。

しかしながら、民法四二二条の規定が存在することから、改めて明文の代位規定を設けるまでもなく直ちに労働者の有する労災保険受給権が使用者に代位取得されるという結論が導き出されるという筋合いのものではないことは、第三者行為災害について、加害第三者が損害賠償義務を履行した場合に、当該加害第三者が労働者の有する労災保険受給権を民法四二二条によって代位取得するか否かの問題を考えればおのずから明らかである。第三者行為災害の場合においても、形式的には民法四二二条の適用が問題となるが、この場合においては加害第三者がたとえ民事損害賠償義務を履行したとしても、労働者の有する労災保険受給権を当該加害第三者が民法四二二条によって代位取得することができないことは争いがないのである。これは、自己の不法行為によって労働者に損害を与えた加害第三者が自己の当然なすべき不法行為責任に基づく損害賠償義務を履行したにすぎないのに、労働者の保護救済のために認められた労災保険受給権を民法四二二条によって加害第三者に代位取得させることが労災保険制度の趣旨に照らし相当でないからにほかならない。使用者行為災害においては、第三者行為災害と異なり、使用者の保険利益を考慮しなければならないとしても、基本的には、使用者は自己の不法行為責任に基づいて損害賠償義務を履行するものであるから、使用者が労働者の有する労災保険受給権を民法四二二条の適用によって直ちに代位取得し得るとの結論が導出できないことは、第三者行為災害におけると同様であるといわなければならない。その意味で、保険受給権に対する民法四二二条による代位取得の可否についての原判決の理解は基本的に誤っているというほかない。そうして、使用者の保険利益を考慮する観点から使用者の代位取得を認めることも、結局のところ、その反面において労働者が保険受給権を失うことになる以上、労働者及びその遺族の保護救済という労災保険制度の性格、目的に反することになるから、明文の規定がない限り許されないというべきである。

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